織田信長という名を聞くと、桶狭間の奇襲や長篠の鉄砲戦など、数々の革新的な戦いが思い浮かびます。では、その信長の最初の戦い、いわゆる「初陣」はいつどこで行われ、どのような結果に終わったのか、まだ詳しく知られていない部分もあります。本記事では、信長が14歳の時に経験した初陣の具体的な場所や経緯、使用された武装、勝敗やその後の信長に与えた影響など、信頼できる最新情報を整理してお伝えします。
目次
織田信長 初陣はいつどこで行われたのか
織田信長の初陣は、天文16年(1547年)です。信長は数えで14歳の若さでした。元服した翌年、つまり天文15年(1546年)に「織田三郎信長」と名を改めた後のことです。
初陣の舞台は、三河国中の吉良と大浜とされます。現代では愛知県西尾市および碧南市辺りにあたる地域で、尾張国の那古野城(現在の名古屋)から約50キロほど離れています。信長の支配圏に近いが、敵対勢力が入り込んでいた地域でした。
日時と年齢
初陣は1547年(天文16年)のことで、信長が14歳の時です。前年の元服に続いて迎えた初めての出陣であると、『信長公記』をはじめとする史料に記されています。元服が天文15年であったため、年齢と対応していることが史実として比較的確実視されています。
場所の特定と地理的背景
出陣した場所は三河国吉良・大浜で、現在の愛知県西尾市吉良町や碧南市大浜町などと推定されています。那古野城(名古屋市付近)を拠点として、敵国と見なされた今川方の勢力が進出していた三河側へ進軍、放火や野営などを行い、那古野城へ戻るという行程でした。距離や地形の関係から、小規模だが大胆な行動だったとされています。
出陣の目的と背景
父・織田信秀が下四郡を中心に勢力を広げていた時期、尾張と三河の国境は緊張地域でした。三河側には今川氏や松平氏などが影響力を持ち、尾張へ圧力をかけていたことが信長の初陣のきっかけになっています。父の信秀は三河侵攻の流れを強める中で、吉良大浜への牽制あるいは威嚇の意味を込めて、若き信長に出兵を命じたとされます。
織田信長 初陣の具体的な戦い方と装備
信長は初陣において華やかな装備を整え、敵地への奇襲かつ火攻めを行ないました。城を真正面から攻略するものではなく威嚇・情報戦的な意味合いのある戦いであったようです。
若き信長がどのような装束で、どのような戦法を用いて戦ったかについては、後世の演出が入っている可能性も含め、史料間の整合性を見ながら説明します。
装束と武装
『信長公記』によれば、信長は初陣に際し、平手政秀によって用意された「紅筋の頭巾」「陣羽織」「馬に鎧を着せる」など、目立つ装いで出陣したといいます。戦への意気込みを象徴するような装備であり、若武者らしい華やかさが史料に残されています。
戦術と進軍ルート
那古野城を出発した信長軍は、三河国吉良・大浜へ向かい、敵の領地に侵入、放火し、道中で野営をするという戦術をとりました。翌日には帰還しています。短期間の突発的な攻撃であり、多くの合戦のような持久戦ではありませんでした。勢いと驚きを利用した戦い方と推測されます。
敵勢力との兵力比較
史料によれば、信長軍の兵力は約800名であった一方、敵側(吉良・大浜側に配置されていた勢力)は約2,000名前後との説があります。数的に劣勢であったものの、奇襲や火攻めによって優位を保てたとする説が主流です。ただし、地元の伝承では大敗したとの異説もあり、どちらが正しいかは歴史学者の間で議論があります。
織田信長 初陣の勝敗とその評価
初陣の勝敗については定説があるわけではありません。公式史料では「成功した出陣」として記録されており、「敵地への放火」「野営後の帰還」が主な成果として挙げられています。
一方で、地元には「十三塚」と呼ばれる塚が並んだため、多数の織田軍が戦死したという説も伝わっています。これらを比較しながら、どのような可能性があるかを考察します。
公式史料における勝利の証言
『信長公記』には、この初陣出陣後、「御帰陣」した、那古野城へ無事戻ったという記述があります。敵のばんことである城や兵営に放火し、威嚇的な攻撃を仕掛けた後にもかかわらず大きな損害を受けていないように書かれており、少なくとも織田側としてはこの初陣を成功とみなしていた可能性が高いです。
異説と伝承の「大敗」の噂
地元伝承では、「長田重元」が率いる今川側の勢力が反撃し、織田軍は挟撃を受けて大損害を出したとする説があります。墓を13基築いたという「十三塚」の話が残るほど、信長軍には死者が多かったとされることから、完全な成功とは言い切れないとの見方もあります。
歴史学者の間での分析と現時点での見解
現代の歴史研究では、『信長公記』が最も信頼される史料の一つであり、これに記された内容が比較的支持されています。他の史料が伝える異説は後世の伝承・物語性が強く含まれていると判断されることが多く、初陣が「大敗」であったという説は史実として確証されていません。従って、信長初陣は小規模ながら成功を収めた出陣と理解されることが一般的です。
若き日のエピソードと初戦が信長に与えた影響
初陣は信長にとってただの戦いではなく、その後の人物像や戦術選択、そして名声に大きく関わるエピソードの宝庫です。ここでは、彼の若き日にみられた性格や風格、初戦後にどう評価されたかを中心に、信長という人物がどのように戦国武将として形成されていったかを見ます。
若武者としての振る舞い
14歳とは思えない大胆さがあります。装束を整えることにこだわったこと、強風を利用して奇襲を敢行したこと、敵地で放火を行い威嚇をかけたことなど、若き日の信長の性格が端々に表れています。これは後の信長の戦闘スタイル──機を見て動き、風を読む戦術性や威圧的アプローチ──を予見させるものです。
家臣や父からの評価
初陣が成功と位置づけられたため、父・信秀や家老たちはこれを喜び、大きな評価を与えたと記録されています。平手政秀や林通勝ら家臣は反対意見もあったものの、それを押し切って行動した信長に対して信頼を深めたことが、信長の後の統率力確立の一助になったとされています。
初陣とその後の戦いとの比較
信長の初陣は、当時としては小規模で戦略的にも限定的ですが、その後の桶狭間の戦い(1560年)や長篠の戦いなどとの比較で見ると、「大胆かつ予測不能な行動」「敵の心理を崩す戦法」「見せ方を意識した装束や場面づくり」といった要素は共通しています。初陣で得た経験や評価が、信長の戦いを指導するうえでの基礎になっていたと考えられます。
織田信長 初陣と他の初戦との比較
日本の戦国時代において、武将の初陣はその後の名声を左右することが多く、信長の初陣も例外ではありません。他武将の初戦と比較し、どのような点が共通・相違するのかを整理します。
他武将の初戦の例
例えば武田信玄、上杉謙信なども若年時に初戦を経験しています。多くの場合、数百~数千の兵を率い、敵陣への侵攻や城攻めなどが行われました。信玄の初陣は海ノ口城攻略、謙信の初戦も越後国内の小規模な戦闘であったという記録があります。規模や戦術、初戦当時の境遇には大小ありますが、武将としての鍛錬がこの段階で始まっています。
信長の初陣が特異とされる点
信長の初陣の特異性として挙げられるのは、「若年での装束の見せ方」「敵地への放火という威嚇行為」「人数で劣勢でも果敢に出陣したこと」です。また、史料には「強風を見計らって出陣した」といった自然条件を読み込む戦術観があり、これは他武将の初戦に比べても戦略的要素が強く感じられます。
信長の初戦と“初の大勝利”との違い
信長にとっての“実質的な転換点”となる合戦は、初陣ではなく桶狭間の戦いです。初陣は威嚇攻撃・偵察的色彩が強かったのに対し、桶狭間は数倍の敵を奇襲で打ち破る歴史的勝利です。故に、信長の名声を決定づけたのは初陣ではなくその後であるという見方が一般的です。
まとめ
織田信長の初陣は、1547年(天文16年)、14歳のときに三河国の吉良・大浜で行われました。那古野城を起点に約800の兵を率い、敵陣地を侵入・放火・野営し、翌日無事に帰還したという記録が『信長公記』を中心とする史料に残されています。
ただし、地元の伝承には「大敗」説があり、戦死者が多く十三塚が築かれたという話も伝えられますが、これを裏付ける信頼できる一次史料は限られており、公式史料では初陣は成功として扱われています。
初陣の経験は、信長にとって装束・戦術・家臣からの信頼などの面でその後の彼の行動に大きな影響を与えたと考えられます。彼の名が天下に知られるのは、その後の戦いによるものであり、この初戦はその序章であったと言えるでしょう。
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